聞き取り その1

 (聞き取り年月 2009年6月)

 

 1937年に、長崎県で生まれた。母親は、自分を産むとすぐに亡くなってしまった。その後、親父は新しく嫁をもらって、新しく4人の子どもを作った。その人は自分を可愛がってくれたので、本当の母親だと信じ込んで育った。


 学校は小学校しか出ていない。理由は、親父が「百姓は学校なんか行かなくていい」と常々言っていたこと。そしてもう一つ。小学校5年か6年の時、青年団をしていた若者から「実はお前の今のかあちゃんは、本当のかあちゃんじゃない。あれは2番目のかあちゃんだ」と教えられ、それがきっかけでグレてしまったから。赤の他人から事実を知らされたのがショックだった。


 小学校卒業後は、家の百姓仕事をしたり、よその農家の手伝いをして飯を食わせてもらったりして働いた。20歳の頃、そんな暮らしに嫌気がさして、家で飼っていた牛を1頭、親に黙って売り飛ばし、その金を持って大阪に出た。


 大阪では、此花区にある鉄筋屋に住み込みで勤めた。当時、その一角には鉄筋屋が5軒ほど並んでいた。日当から寮費やら食費やらを引くと、手取りは半分くらいになった。鉄筋屋のオヤジは全身に見事な墨を入れている人で、けっこう自分を可愛がってくれた。「ワイも墨を入れろ」と言われ、その気になって入れ始めたが、途中でその店を逃げてしまったため、墨は中途半端なままに終わった。


 逃げた理由は、賄いの飯。毎日、毎日、飯にホルモンをぶっかけた「ホルモン飯」ばかり。ホルモンは好きだったが、毎日続いたら食えなくなる。「たまには別のものを食わせてくれ」と言ったら、「ホルモンは元気が出るからいいんだ」と言うばかり。同僚の労働者が「逃げよう」と言うので、「よーし」ということになり、夜中に一緒に逃げた。その後は釜ヶ崎をはじめ、全国の飯場を転々とした。


 一時は女房もいたし、子どももいた。子どもは女の子だった。長崎に住んでいた頃のことだ。ところが、ある日仕事から帰ってみると、女房は幼い娘を残して男と逃げていた。泣かれて、泣かれて、仕事にも行けない。しばらく面倒を見てもらおうと実家に連れて帰ったが、「うちも困る」と断られ、「お前では子どもは養えないから」と、親戚を介して人に引き取ってもらうことにした。手放してしまった娘は、今どこでどうしているか…。そのことを考えると、今でも頭が変になりそうになる。


 その後、父親が病気になったので実家に戻り、看病がてら家の仕事を手伝ったが、30歳の頃、親父が死んだ。「ここにはもう、俺の居る場所はない」と思ったので、それを機に実家を出ることにした。義理の母親は「行くな」と泣いて止めてくれたが、腹違いの弟からは、別れ際に「もう来んでよか」と言われた。


 築港に初めて来たのはその頃。まだ御笠川の西岸には、千鳥橋から上流まで、バラックが並んでいた。川の東側のバラックはもうなかった。そこには人夫出し業者も、安い一杯飲み屋もあったから、日雇い労働者が大勢集まっていた。バラックの朝鮮人のことをあれこれ言う人がいるが、日雇いのなかで彼らを悪く言う者はいなかった。金が全然ない時でも、そこに行けば白飯を食わせてくれた。


 最初は、築港周辺の業者の寮に入って、そこから仕事に出た。ハマに立ち始めたのは40代になってから。毎日仕事があって、解体、足場の組み方、コンクリ打ちなど、何でもやった。「今日は酒を飲んでるから、仕事には行かん」と断わっても、業者のほうが「構わん、行こう」と言って、無理にでも引っ張って行くような時代だった。当時の日当の相場は、だいたい1万2千円。午前中で終わって帰ってくると、別の業者が待っていて、午後からまた一仕事という時もあった。その当時はドヤに住んだ。


 しかし、仕事が減ってドヤ代が払えなくなれば、もうそこには住めない。だからこの10年余りは、港で車中生活を続けている。誰かが乗り捨てていった車の中で寝る生活。そこから毎朝、ハマに通っている。仕事に行けたり行けなかったりの日が続いたが、特にこの3~4年は、雇ってくれる所がさっぱりなくなった。たまに業者が来ても、雇うのは若い者優先。仕事に行けたのは、年に1回か2回。仕方ないからアルミ缶を集めて売って、何とか生きてきた。


 アルミの売り上げで買える物と言えば、インスタント・ラーメンくらい。車の中で、カセット・コンロで炊いて食っている。年がら年中、ほとんどラーメンばかり。それだけではもたないので、時々卵を一緒に買って、ラーメンに入れて食っている。


 土方仕事も事故で危ないが、アルミ缶集めも危ない。夜中にアルミ缶を集めていたら、いきなりゴルフのクラブで頭を殴られ、陥没骨折を負わされて入院したこともある。その時のことは警察にも言ったが、まともに相手にしてもらえなかった。


 アルミ缶集めを始めてからも、「仕事さえあればまだ働ける」と思って、朝は毎日ハマに立ってきた。しかし仕事はない。「リーマンショック」でアルミの買い取り価格も暴落して、キロ当たり160円だったのが、一時は20~30円に。もうどうにも食えない。組合から「これまで十分に働いてきたんだから、もういいじゃないか」と言われて、生活保護をとることにした。不動産屋からは、遠くのマンションを紹介されたが断わった。この年で新しい土地へ行っても、地理を覚えきれない。知った者もいない。できれば死ぬまでハマで暮らしたい。